『正論』6月号に、日本会議専任研究員の江崎さんが、「やはりGHQ主導だった教育基本法制定」という文章を書かれています。
非常に貴重な情報なので、概略をお知らせします。詳しくは本文をお読みください。
「教育基本法」は、憲法同様GHQによって押し付けられたものであるということを、多くの人に認識されていません。その原因のひとつは、講和独立後、自民党が占領政策見直しを始めた頃、教育基本法を作成したとされている南原繁元東大総長の言葉にあります。
南原氏は教育基本法制定のときに「一回も総司令部(GHQ)から指令や強制を受けたことはなかった」と述べています。これが定説になっているからです。しかし、この言葉は真実を伝えたものではありませんでした。
日本は戦後すぐに自主的に教育改革を始めましたが、アメリカは「降伏後における米国の初期対日方針」に基づいて、日本にアメリカの傀儡政権を樹立するという方針を持ち、自主的な教育改革に口を出してきたわけです。
この結果、「実際の文部大臣は総司令部」という状況が作られ、GHQは昭和21年1月に、「米国使節団」受け入れという名目で、「日本教育家委員会」を作るように命じます。
教育基本法にアメリカの介入はなかったと述べた南原氏が、この委員会の委員長に就任しました。南原氏は、プロテスタントであると共に社会主義に強いシンパシーを持つ人物で、内務省役人時代には日本初の労働組合法を立案し、レーニンの『国家と革命』を翻訳させ部内資料として出版しました。その後東大助教授になりましたが、弟子には、丸山真男や中国共産党と組んで日本の戦争犯罪を告発する戦後補償裁判を主導した土屋公献などがいます。
「日本教育家委員会」は「米国教育使節団」を受けいれ、その後この委員会の委員が中心になり、教育基本法の制定に関与する「教育刷新委員会」が組織されました。
この「教育刷新委員会」は、GHQ教育改革部門である「民間情報教育局」=CIEのコントロール下に入ります。「教育刷新委員会」とCIEはSteering Committee(「舵取り委員会」)という名前の連絡委員会体制で結ばれていました。文字通り、「教育刷新委員会」はCIEから舵取りをされていたのです。
CIEの第一の介入〜「愛国心」の排除
「教育刷新委員会」は昭和21年9月に「教育基本法要綱案」を出しますが、この中には、戦前の「小学校教則大綱」にあった愛国心の涵養という内容が含まれていませんでした。
何故かというと、GHQによる事前検閲という言論統制が行われていたからです。その中では「国民的、国家、わが国」などという言葉も削除されていたのです。
事実上、GHQ、CIEの下で、「教育刷新委員会」は愛国心を削除せざるを得なかったのです。
CIEの第二、第三の介入〜「不当な支配」「男女共学」
その後、CIEは「教育基本法」案に本格的に介入します。
まず問題にしたのは、「男女共学」です。「教育刷新委員会」から「教育基本法」の案を提出された文部省は、「男女はお互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、両性の特性を考慮しつつ同じ教育が施されなければならないこと」という案を持参しますが、CIEはこれを了承せず、「両性の特性」を考慮しつつ」という文言が削除されます。
まるで、現在の「ジェンダーフリー」論争のようですね・・・。
この「両性の特性を考慮しつつ」が教育基本法に盛り込まれていたら、ジェンダーフリー教育の状況も変わっていたことを考えると、複雑な思いがします。
さて、CIEは「教育基本法」案の中の「教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し」という言葉に懸念を示し、その後も文部省の修正案にも満足できず、CIE自らが「教育は、政治的又は官僚的な支配に服することなく」という文言を入れたのです。
以後、今に至るまで日教組支配を許す「不当な支配に服することなく」が入り、日本の教育現場を混乱させて来たわけです。
CIEの第四の介入〜「伝統を尊重して」「宗教的情操」の削除
「教育基本法」案では、「宗教的情操のかん養は、教育上これを重視しなければならない」とありましたが、CIEは「宗教的情操のかん養」を削除し、「社会における宗教生活の意義と宗教に対する寛容の態度は、教育上これを重視しなければならない」と差し替えを要求しました。
この「宗教に対する寛容の態度」という表現は、「無神論者に対する寛容を含む」と解釈され、事実上、学校教育において、宗教に関する教育は一切禁止されることになったわけです。
「属国の悲しみ」
江崎さんは、「教育基本法」制定に関わった「教育刷新委員会」の議事録が何処かに存在しているはずだということで、長年かけて資料を探したそうです。その結果、議事録を見つけ出します。そこには、CIEが教育基本法に関与した様子が記されていたそうです。
この議事録に出てくる当時の文部省の日高さんという方は、CIEとの折衝について「属国の悲しみ」という一文を書いておられるそうです。しかし、この「属国の悲しみ」は、その後語り継がれることもなく、ひっそりと忘れられたままなのです。
(詳しくは、『正論』6月号をお読みください!)